おとうさんが永遠の眠りについた。
昨年初夏に別な病気を患いそのための入院をし
そのとき既に 他病院の検査で判明した
「大腸」のガンをもったまま
並行する形で
手術、入院。
が
既に転移がみられ
抗がん剤投与を取り入れながらの
生活が始まった。
が、それも数ヶ月で
父の強い意思により
やめることになるのだ。
本人は
副作用のある「抗がん剤」には難色を示す。
QOL。
それが低下するのを
本当に嫌がっていた。
本当に自由人で
自分の意思どうりでないことは
多少常識からはずれても従おうとしない
そんな人だったがゆえである。
手術後の入院は
最低限を望み
ガン治療のための
「管だらけでベッドに縛りつけられる」治療は
絶対に拒否していた。
痛み止めは経口薬は受け付けるが
点滴等は拒否。
まったく
医師泣かせの人である。
そんな気難しい患者に対し
治療計画を示してくれた
外科医師には
感謝しており
よくぞ父のわがままに、付き合ってくれたという
心境である。
そんな中
入院は最低限のため
家に戻った父は
母を伴い、なじみの場所に旅へ出かけ
行った先の写真をとり
札幌市ウエブサイトへ投稿し
非常にロマンあふれる文体と共に
その地の説明を読者へ語っていた。
私たち子供たちには
あまり多くを語らず、もちろん泣き言は一言も言わず
静かに
あくまでも自分流に
治療を続けながら生きていたのだ。
ガン判明から約一年。
2010年7月22日 21時40分
父は最期に 3回深い呼吸をし
その後眠りについた。
最期にそばにいたのは
母と弟。
母が父の手と腕を必死にさすり
「弟が到着するまで待ってよ!お父さんまだ待ってよ」と大声で
呼びかけていたそうだ。
苦しい呼吸のままそれに呼応するように
弟の到着まで
まだ息があったようだ。
私がその夜19時まで、父のところに
居たのに
結局最期には居てやれなかった。これだけが
大変悔やまれる。
息をひきとったその時刻は
毎日父を見舞っていた母が
いつも「じゃあまた明日来るから、お父さん」と言い
病院を後にする
その時刻であったようだ。
おとうさん
私は何も助けになってやれなかった
わるい娘でした。
退院して自宅療養でも
決して体調がよいわけではなかっただろうに
安心して
あまり頻繁に顔を出さなかった。
きっと
そのことにも気落ちしていたでしょう、おとうさん。
ごめんなさい。

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